書くことの練習帳

書こうと思い立ったけど何を書けばいいんだろう。全く構想なしでペンが進むまま書く。

 

 書くことは大切だ。思考は常に流れ、それゆえに捉えどころのないものであるが、これを整理するのには書くことが最適であるからだ。話すことでも可能だがそれは相手を必要とするものであり、自分がうまく言葉にできないものでも相手の理解によって何となくのニュアンスで理解されることが多い。これは自分の考えを適切に言葉に出来ていないということであり、その出来ていない部分を相手の物分かりのよさ(わかりみ)に依っているということである。他方書くことは他者の助けなしで、自分の考えを筋道立てて言葉にせざるを得ない。なので書くことが自分の考えを整理する上で最適である。そもそも大人が書くことが出来ない、出来てもその質が低いとなると社会ではほぼ確実に恥ずかしい思いをするだろう。

書くことは小・中・高の内に学ばれるべきものであるが、私の経験上学校で書くことを教わった記憶があまりない。運動会、遠足など何かイベントがあった時の日記、夏休みの宿題としての読書感想文など書くことが要求される課題が出ることはあったが、その書き方までは習っていない。受験では、小論文を入試として課す学校もあるが、幸か不幸かそのような学校は多くはないので、本格的に書くという経験をせずに高校を卒業する。

しかし、大学に入ると一転急に書くことを要求される。試験も受験勉強と異なり、穴埋め、一問一答だった問題形式からレポート試験や論述問題に変わる。日常の講義でもコミュニケーションペーパーなるものを学生に配り、講義の感想を紙に書かせ、それを提出させることで出席点とみなす教員もいる。また、ゼミに入れば発表のためのレジュメ作成もしなければならず当然書くことは避けられない。極め付けは卒論である。卒業の要件にされていることで半ば強制的に書くことを課される。

このように大学に入れば書くことは不可避だ。しかし、大学ではこれほど書くことを要求されるにも関わらず、大学に入るまでに書くことを学ぶ機会は十分にはなかった。何となく日記を書かされた、何となく読書感想文を書かされた、この程度の経験値では確実に大学に入って苦労する。実際、苦労した。苦労したが、大学の先生も鬼ではないので、多少表現が拙かったり論理展開が粗っぽくても必要なキーワードが載ってさえいればそれなりの成績はくれるのだ。

そして現在、私は書くスキルの底上げという経験を経ずに何となくで大学を卒業しようとしているのである。

これは由々しき事態である。書くことは書くことを通してでしか上達しない。しかし、その方法を私は学んでこなかったのである。なら調べるしかあるまい。

https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-682.html

なるほど。けれど面倒なことこの上ない。そもそも書く行為すらそれが苦手な自分にとっては億劫だ。しかし仕方ない。これは今までサボってきたツケが回ってきたのだ。続くかどうかわからないが、やるしかない。そう考え、この度半年ぶりにブログUPさせて頂いた次第です。

 

何か書かなきゃいけないなぁと思いつつテーマが思い浮かばないので書くこと一般について書こうと思いました。けど書くことをあまりしてこなかった自分が書くこと一般について書けるはずがないと割と早めに察したので今回はブログをUPする経緯についてとりあえず書きました。書くって難しいなぁを再認識。

「イントゥ・ザ・ワイルド」という映画を見た

 自分探しの究極の映画だった。自分探しの旅を頑強な意志で決行する主人公は道中幸運なことに素敵な人々の出会いに恵まれる。けれどそれをすべて捨て去り、自分探しに拘泥する。その結果、主人公が見たものは絶望である。

ラストシーン、主人公が一生をかけて得た真理(のようなもの)。

「Happiness is only real when shared.(幸せはそれを分かち合った時にはじめて現実となる。)」

 自分探しの文脈に置き換えると、「本当の自分」というものは内面に秘められているものではなくて、他者との関わり合いから生まれる。的な?

 ごくごく平凡な結論だけど、ありがちなことにこそ真理はあるのかな。友達が少ない私にとっては救いようのない結論になるわけなんですが…。笑

 少なくとも自分はこの映画を見て旅をしたいとは思わない。結末どうこう以前に、主人公のように素敵な人たちを引き寄せられるだけの運も能力も持たないからです。笑

 まあ一番思ったのはこの映画ではソローが辿り着いた境地は乗り越えられないだろうよってことです。

『若者よ、マルクスを読もう』を読んだ

 世界を東と西とで二分するほどの影響力を持った思想の一端を知りたくて購入。マルクスがいなければ今の国際情勢も全く様相が違うんだろうなあと思うとマルクスの思想は桁違いにスケールが大きい。現代的な評価はさて置き、史的唯物論っていう1つのアイディアが世界を席巻するってところにロマンを感じる。

 この本はマルクスおよびその友人のエンゲルスが思想家として比較的若手だったころに執筆した本について、マルクス研究者とフランス思想の学者が文通という形をとって高校生向けに解説するって内容。この本のいいところは、マルクスの著作を機械的に解説するのではなくて、マルクスがその思想を持つに至った生い立ちや歴史的な背景が先に示されていることで同時代的に読めるように工夫されているところ。マルクスがどのような問題意識を持ってどのくらいの熱量で執筆したかってのがよく伝わる。けれど、やはりドイツ哲学の系譜を継ぐマルクスあって解説があっても難しいところは難しい。それでもどうにかしてマルクスの魅力を伝えようとする著者のパッションを感じてギリギリ挫折はしなかった。文庫本で全体として200ページちょっとなのでこの程度で挫折してたら「古典」のほとんど読めないんだけど。

ユダヤ人問題について』とかで語られてるところは正直そこまで目新しくないなと思った。「人間的解放」とか「政治的解放」は典型的な近代批判。バーリンの「消極的自由」とか「積極的自由」とかそのあたりの議論とさして一見変わりはないように見えた(適当な妄言です)。「類的存在」も著者の1人の内田先生が噛み砕いて解説してくれるけど噛み砕けば噛み砕くほどルソーの「一般意志」における個々人と何が違うの?って思った。

 マルクスのオリジナリティは有史以前からの歴史解釈をまるっととらえ直す壮大な唯物史観にあるんだろうな。人間によって作られた物質、生産諸力、ありていに言えば「金銭」によって法、政治、社会、道徳は規定される。そして国家はそのシステムを維持する装置でしかないと。しかし、唯物史観に基づく社会はいずれ限界が来て自然発生的にプロレタリア革命が起きて国家は転覆し、共産主義国となる。

「支配階級よ、共産主義革命の前に慄くがいい。プロレタリアには、革命において鉄鎖のほかに失うものは何もない。彼らには獲得すべき全世界がある。全世界のプロレタリア、団結せよ!」(『共産党宣言平凡社ライブラリー)

 し、しびれる。脚本家の才能もあるマルクス大先生。この箴言についての内田先生の修辞学の観点からの解説も数ページあってそれを読むだけでもこの本を買う価値があるなと思った。

 他に気になったポイントはこれまた内田先生の解説部分で、

「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する」(『ドイツイデオロギー』合同出版)

 内田先生はこのセンテンスを唯物史観を端的に表した一文として紹介した上で、人間の行為の価値判断基準の話、つまり人間の行為が善か悪かが決まるのは動機か結果かという議論へと(やや強引に)つなげる。言わずもがなこのセンテンスから導き出されるマルクスの答えは結果である。動機というのは内心の話であって、いくらでも疑えるし、移ろいやすくあいまいなものなので、たとえ正しい動機に基づいて善行を積んでも、斜に構えた人間は偽善だと糾弾するだろう。内田先生はこのような人間で構成される社会は「善い社会」にはなり得ないと言う。単純な話でそのような疑いあう社会では人々は善いことをしようとは思わなくなるからだ。プラトンイデア論に先立つ本質主義を真っ向から否定する。

「自分のことを善良で有徳な人間であると思い込んでいる人のほうがむしろ卑劣な行為や利己的な行為をすることをためらわない(...)なにしろ彼らは『本質的に善良であり、有徳である』わけですから『何をするか』ということには副次的な重要性しかない」

「自分は正しい!」という確信は「あいつは間違っている!」という確信とイコールであって、確信を実行に移すには手段が善であろうが悪であろうが関係なくなるということ。なるほど、ナチスユダヤ人を絶対悪と見なし絶対悪を排除するため残酷極まりない手段を採った、じゃあ同様にナチスを絶対悪とみなすことは間違っていると言わざるを得ない。ナチスは公衆衛生面において今から見ても先進的と言える施策をとってた、このことから「ナチスは善いこともやっていた」ということは認めなければならなくなる。うーん、なんだかなぁ。

 結局は比重の問題で、ホロコーストや人体実験といったナチスの行った悪は巨大で「ナチスのやった善いこと」は巨悪を相殺するには全く足りなくて、全体としてみれば変わらず「ナチス=巨悪」だという結論になるのかね。一部であってもナチスを褒める結果になるということはどことなく腑に落ちない。

 

 マルクスの話からナチスの評価の話へと脱線してしまった。字数も2000字を超えたし歯切れが悪すぎるけどもうやめるか。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

『ニッポンのジレンマ』を見て考えた議論のあり方

 Eテレの『ニッポンのジレンマ』という番組を見た。20代から30代くらいの比較的若めの論客を呼んで社会のあり方や政治のあり方、テクノジーのあり方などについて議論を深めるといった内容。この番組のおもしろいと思ったところは『朝生』みたいに専門家を呼んで特定の分野の議論を深めるといった趣旨ではなく、自論を展開するのが起業家や学者、芸術家あるいは僧侶など普段の生活では交わらないであろう異分野の「知識人」たちで、彼らが自論の押し付け合いをするのではなく、結論を導こうとするまでのプロセスを大切にして議論するところ。あつかう問題自体がどれも答えのないものだから結論なんて出ないんだけど、異分野の人たちが議論するから一視聴者としてはそういう視点もあったのかと膝を打つこともあれば、アプローチの仕方は異なっても考えてることはそこまで違わないんだな、みたいなこともある。

 この番組見てて思ったのは、議論にそれなりに慣れた人がキャッチボールすることで番組は成り立ってるけど、そこらへんの一般人を無作為に捕まえてきて「はい今から日本の社会問題について議論してください」でも番組が成り立つか?ということ。

 いや無理だろうね。だってこの番組ってある問題についてそれなりに主張したい『持論』があってその物事に知識なり関心がある人たちがキャスティングされてるからこそ成り立ってんだもん。

 けど議論されている問題について一番考えなきゃいけないのはそこらへんの一般人。そうじゃないと公共テレビで放送する意味ないしそれ自体が知識人階級の言葉遊びでしかなくなる。

 じゃあどうすればいいんだろうと考えた。

ある程度の関心があることを前提として、まずは個人個人に議論に必要な最低限の知識を与えること。そして考えうる立場を選択肢としてすべて挙げ、それを選択させること。これが大切。

 けどこれだけじゃ議論するのには足りない。このまま例えば10人の人がそれぞれ向かい合って「はい議論をしてください」じゃあ議論は深まらない。積極的に発言する人はいるだろうけど、それは一部の人で他の6-8人は傍観あるいは適当な相槌を入れるにとどまるでしょう。なぜなら自分の中で意見がまだ持ててないから。

 じゃあどうしたら自分の意見を持てるのか。それはまずはサシで話すことだと思う。先に選択した自分の立場をペアで掘り下げること。なんでその選択肢を選んだのか、テキトーに選んでいたとしても数ある中でそれを選んだ理由・背景を掘り下げ合うことで、ぼやっとその問題について思っていたこと考えていたことがよりクリアになる。次に、また別の2人グループと一緒になって、4人で同じことをして自分の主張をより洗練させていったり、他の人の意見を聞いて自分の意見を転向させたりする。それを繰り返していって全体があたたまった状況になって初めて、全員がひざを突き合わせる議論が始める。

 こうした過程を経ないと、一部の人だけで話が進んでいってその話にのれない人が確実に出てくると思う。自分の意見がぼんやりしたまんまでは、自信を持って発言できないからそもそも話さない、聞いてるだけで議論についていけないから急に話を振られても適切な返答が出来ない。お恥ずかしながら自分がまさにそうでした。

 ディスカッションするにしてもそれなりに丁寧な手順を踏まなきゃ全体としては盛り上がらないってお話でした。『議論のあり方』だなんて大層なタイトル付けたけど別に大したこと書けてないという。

文章を書くことの練習ですね。

存在すら忘れかけていたブログの更新といまの悩み

就職活動の自己分析()をしていたら「そういやブログとか書いてたな」とか余計なこと思い出して8か月ぶりくらいにこのページに飛んできた。とりあえず、なに書いてたかなと過去の自分が書いた記事を読む。いやー、1年経ってない記事だけど文体が気持ち悪いことこの上ないですねー、ほんと。身の丈に合わない気取った言葉が頭の悪い文章から異様に浮いてて「こいつ背伸びしてんな」感がハンパない。しかも事実と自分の感想が一つの段落に混在してて読みにくいこと、この上ない。改行してないから字が詰まっててビジュアル的にもくそ。まあ読者なんて存在しないだろうからビジュアル面はどうでもいいと思ってたんだけど、半年以上経った自分が読み返すこともあるのは予想してなかった。けど自己満足のブログであることには変わらないし、改行とか考えるの面倒だから久しぶりの記事でもあえて改行一切しないで字を詰めて投稿する。とりあえず今私は、就職活動中である。といっても2回ほど会社説明会行った程度でほとんど何もしていない。今日もAM9:00に先日説明会に行った企業のESの〆切日だったが提出出来ず。志望動機などは拙いながらも考えたのだが如何せん自己PRが書けない。自分の強み?ないよそんなの。20年以上生きてきたけど人様に自慢できるような強みなんてありません。そのため就職活動は停滞中。特にやりたいこともないし自分の未来図なんて描けないし、友達と呼べる友達なんていない。”なんとなく”で生きてきたツケがとてつもなくデカくなって一気に降り注いでる。もう詰んでるのかね俺は。最後に最近就職活動に病んで書きなぐった文章載っけてアディオスです。


怖い

就職口が見つからなくて無職になるのが

内定をかろうじて得てもそこが低賃金長時間労働なのが

どんどん待遇や条件の良い会社への間口が消えていくのが、


だから就職活動をしたい


しかし、エントリーシートが書けない

自分をアピールできるようなエピソードがない

語れるような話がない


絞り出しても

否定される


だから

とまることを余儀なくされてる。。


どうしたらいいのかわからない


努力の方向性が見えない


もう諦めるしかないのか


どうなんだ


どうなんだ


どうなんだ


どうなんだ


どうなんだ


カウンセラーに相談しても同じ。何かやってて楽しかったことは? 壁を突破したことは? バイトで自分らしさが出たところは? 


そんなの分からないですはっきり言って。

自分の空虚極まりない過去を思い出すのももう疲れた。


周りにどんどん追い抜かされていく。


一見「ザコそう」に見えるような人でもちゃんとエントリーシートかけて就職口みつけてんだもんなー、すごいなー、


どうなんだ。


どうなんだ。


どうなんだ。


どうなんだ、


どうなんだ。


逆にここをクリアすれば道が拓ける気がする。

しかしそのやり方がわかんねーのよ。

世間一般で言われてるやり方ではクリアできねーのよ。

できない人向けのやり方で進めてもクリアできねーのよ。


あーあ。


生きるのに向いてないのかね、私は。


やる気がでないです。


時間が経つにつれ何もしてない自分に対しての嫌悪感と焦燥感と劣等感が増幅。


頭で考えても何も変わらないので文字で打ってみた次第でござります、

それでも何も変わりませんけどもね


正直今書いてるレベルというか言葉のチョイスというか考えていることというかそれも中学生みたいに陳腐なもので自分に辟易しております。


体をなしてない。頭がぼーっとする。まともな考えが出来ない。


これが非一貫的に行きてきた人間の末路ですか


うぇーい笑

3.24 1512

シャツ生地の説明を受けたことに思ったこと

とりたてて特徴のない白いシャツを一枚手に取る。値札には25000円との表記がある。

ショップ店員が

「そのシャツは××という元々は生地屋だったブランドで〜」

「風合いが良くて〜」

「ハリとコシが〜」

といったように、ブランドの説明をした上で、そのシャツに使われている生地の上質さをーシャツの生地を説明する上で使い回された「風合い」「ハリ」「コシ」などといったワードを巧みに用いてー説明してくれる。なるほど確かにそのシャツの生地は上質なのかもしれない。しかし、それはブランドの名前、アイテムの説明書ありきじゃね?

 予備知識なしで、服の生地の良し悪しを見分けることは容易なことだろうか。

「ブランドタグが付いている」

「オシャレな店員さんがそう言っていた」

生地そのものを見て判断するのではなくそれ以外の、ブランドであったり雑誌や店員が発信したことであったりが購入の動機付けとなったのであれば、それは権威に付き随うことに相違ないんじゃないか。

しかし、生地の審美眼を磨くために費やす時間なんて一般的な消費者にはない。わからない、だから一定オーソライズされているブランドから服を購入することになり、それは仕方のないことである(ブランドを探すことすらコストになるのだが)。

け、れ、ど、それはコンシューマーの話であって売り手側は一定の審美眼を持っているべき。なぜなら審美眼を持っているかいなかが両者を分けるものだと思うから。

自分がそのアイテムについて思ったことを受け売りではなく、自分の言葉で説明できる程度には知識、表現力を身につけなければならない、と感じる。こと、生地の良し悪しに関してはクオリティの高いものと低いものを着用する経験を通さなければ、説得的な論拠を以って説明することは難しいだろう。

顔そり

 普段、髪を切るときは一丁前に美容院を利用させていただいてるんだけど、なぜか美容院は顔そりしてもらえない。眉毛整えてくれるんだから顔そりもしてくれたらいいのにと思うんだけどね。こういう細かい点で美容師と理容師は住み分けしてんのかな。

仕方ないので理容院に顔そりだけしに伺ってみた。しかし、まあ、なんと、こりゃかなりええもんじゃったわ。理容院に行くのが中学校3年生以来だから、顔をそってもらうのなんてかなり久しぶり。つまり、顔のあらゆるところの毛は中3から生えまくりなわけだから、それを全て刈ったときの爽快感たるや、ハンパないものがあった。

剃りやすくするよう毛穴を開かせるためにホットタオルを顔の上にのせてくれるんだけどあの感じたまんないね。他にもシェービングクリームのあの独特のかほり。さらに言えば剃ってもらってる時のちょっとくすぐったいあの感覚も顔そりの醍醐味。

顔そりという名称だけど耳の毛とかうなじも刈ってくれるから得した気分になる。

肌はツヤツヤ、なしか自分の顔も明るくなった。

しかも驚くことに私が行った理容院さんは顔そり代金700円。

美容院では眉毛整えるだけで1000円とられる。それに比べればこれは破格にお安い。

 美容院行ってるけど顔の産毛とかノータッチっていう人にはコストの面も考えて理容院の顔そりがとてもおすすめである。

 ちなみに顔そりだけなら女性のお客さんもお見えになるそうなので人目が気にならなければ是非。だけど女性はもう少し高くなるそうです。男尊女卑?!